春の始まりには、なぜだかいつも、すこしだけ取り残された気持ちになる。
桜が咲きかけた並木道を歩きながら、還暦を迎えた男は、そんなことを思っていた。
風が頬に触れるたび、ふと過去が揺り起こされる。
そこにいたのは、彼女だった。
「We are such stuff as dreams are made on, and our little life is rounded with a sleep.」
彼女は『テンペスト』のその台詞を、よく口にしていた。
まるで、日々の暮らしの隙間に、そっと夢の破片を紛れ込ませるように。
“私たちは夢でできている”――
それを「美しいね」と言っていた彼女は、本当に心の奥から信じていた。
現実に足をつけながら、どこかでいつも幻想の余白に寄りかかっていた。
本を読む彼女の背中は静かで、時折、灯のように明るかった。
その本棚の一角には、『第二の性』と『マルドロールの歌』があった。
「ボーヴォワールとサルトルって、自由を信じた人たちだったのよ」
紅茶を片手に、彼女がそう語る夜があった。
「契約書を交わして、一生お互いに“最も大切な他者”でいるって約束したの。愛のかたちは一つじゃないって、世界に示したような関係」
彼女はボーヴォワールのように、何かに縛られるのを拒んでいた。けれど一方で、人を深く信じる強さも持っていた。
そして、彼女の言葉の端々には、しばしばロートレアモンの影がのぞいていた。
「不条理って、世界が意味をくれないこと。でも、その中でも意味を探そうとする人間の姿が、美しいと思うの」
彼女はマルドロールの残酷なイメージの中に、冷たさではなく、むしろ“意志”を見ていた。
目をそらさずに、不条理を見つめる。そのまなざしに、彼女自身の生き方が重なっていた。
若かった彼女の言葉は、今思えばとても成熟していた。
それなのに、何も言い返せなかった自分がいた。ただ、彼女の語る世界を、静かに見つめていただけだった。
ふたりは、はっきりとした理由もないまま、別れた。
ある日、沈黙が生まれ、その沈黙が距離になり、気づけばもう、彼女の背中は遠い場所にいた。
そして三年。
唐突に届いたのは、葬儀の案内だった。
彼女の父親の名前で差し出された、ただ一枚の白い葉書。
ガシャリ、という音が、男を現実へ戻した。
重機がゆっくりと鉄の腕を伸ばし、外壁の一部を崩す。
パリパリと木材が裂ける音、舞い上がる埃。
午後の光に照らされたその光景は、不思議と荒々しさがなかった。
白く塗られた壁、丸いドアノブ、二階の窓。
どこかで見たことがある。けれど、すぐには思い出せなかった。
心の奥底に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮かび上がる気配。
「It is required you do awake your faith.」
『冬物語』のあの台詞が、ふいに耳の奥で響いた気がした。
信じる力を、目覚めさせて。彼女が一度、深夜の電話でぽつりと語った言葉。
赦しと再生の物語。
彼女が愛したシェイクスピアの最後の舞台。
男の中で、すべてがひとつにつながった。
――この家は、彼女の家だ。
あれから三十年が経っていた。
彼女が語ってくれたボーヴォワールの思想。
不条理に目を背けず、それでも夢を語っていた人。
彼女の暮らしたこの空間が、いま静かに消えてゆく。
崩れていく家の奥に、彼女の声がまだ残っている気がした。
そして男の頬を、一筋の涙が伝った。
それは今、ようやく彼女の舞台の幕が、
静かに下りた合図だった。
fin
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